熊本県上益城群益城町に生まれ育った「矢嶋四賢婦人」のことを「熊本のハンサムウーマン」と作者 堤克彦氏は名付けました。
かつて、昭和34年(1959年)『婦人公論』の「日本新おんな系図」シリーズで大宅壮一氏は「熊本の猛婦たち」と題して熊本県の女性たちを紹介していました。「熊本の猛婦」の中に矢嶋四賢婦人の2人をあげています。
「熊本の女性の特徴」を猛婦というイメージからハンサムウーマンに名前を変えて私も熊本の女として誇らしくスマートに日本中を歩ける気分です。
熊本の女性の特徴として
①明治以後、婦人の自立・独立・地位向上のために勇敢に戦った婦人闘士の多くは熊本出身である。
②「婦人の中の婦人、いや女の中の男とも言うべき勇猛果敢な闘士」(両性的、中性的)
③「いずれの一人をとってみても、久しく男性中心の日本社会に根を下ろしている悪徳と悪習に挑戦するために、婦人大衆の決起をうながし、その陣頭指揮を行ってきたところの女性将軍達。いわば『猛婦』とも言うべき存在である」と締め切っています。
大宅壮一氏は「熊本の猛婦」の中に「矢嶋四賢婦人」のうち「竹崎順子・矢嶋楫子(やじまかじこ)の2人・縁戚の久布白オチミ、嘉悦孝子・川口愛子・高群逸枝などの名前をあげています。
「矢嶋四賢婦人」の四人とは
1(三女)竹崎順子-----熊本女学校の校母(現在 開新高等学校)
2(四女)徳富久子-----熊本女学校(熊本フェイス学院高等学校の前身
現在 開新高等学校)を設立。のちに姉の順子に
バトンタッチ
3(五女)横井つせ子---横井小楠の妻 横井小楠は幕末維新期切っての政治 思想家
として 有名です
4(六女)矢嶋楫子----離婚後38歳で上京し明治4年にできた「小学校教員伝習所」
で勉強し明治5年に小学校の教員免許を取得し 芝の桜川小学校
で明治6年から5年間奉職することとなった。
「女学院」初代院長、婦人矯風会会長となり婦人参政権獲得運動のさきがけとなる (今の私達にとって 当たり前と思われる選挙権でも、その 獲得のために血のにじむような努力があったのです)
この素晴らしい矢嶋家のハンサムウーマン達を産み育てた母親とはどんな女性でどんな教育をしたのか、とても興味があります。英雄と呼ばれるものの母親とは、例えばエジソンの母の様に知能才識ある賢婦に違いないと思うのですが、果たして彼女はどんな人だったのでしょう。
母鶴子の生家は益城町三村家です。父 三村和兵衛と母 布田氏女の間に生まれました。彼女の女子教育は、当時女子の本分としての女らしさを重要視した「良妻賢母」的教育観に立脚しながら『種々の点に於いて、男子と同じ地位に立つ事を求めていた訳ではありませんでしたが、しかし「良妻賢母」の養成には程度の高い教育はいらないとも決して思ってはいませんでした。むしろ彼女の「良妻賢母」教育の根底には常に「自分で思考・判断できる女性」の育成という信条と信念が垣間見られました』とあります。幕末から明治期・激動の時代に生まれた鶴子さん。娘達がこんな活躍をしようとは夢にも思っていなかったんじゃないかと思います。
「なあに、わたしゃ特別なことはしとりまっせんバイ」と鶴子さんの声が聞こえてきそうです。
チャイルドアカデミー 代表 森裕子
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